千曲川往還の管理が橋元であったため村方の重要な任務であった。
御馬寄村には、毎月1と6の日に市が立ち、戸数は146のうち商家が26で、天保年間(1830〜44)には、穀相場はこの地で決まったといわれ、米穀販売で賑わった。