宿は、慶長年間(1596〜1615)初期に成立したものと考えられる。 街並みは宿の中央でかぎ形に曲折し、東へ上がる堅町の中町に本陣、問屋、脇本陣などが集中して宿規模拡大とともに南へ延びる横町が拡張されたと推定される。
天保14(1843)年の宿の概況は、長さ7町52間、人数721で、家数187のうち、本陣1、脇本陣1、旅籠屋43、問屋場には75日代わりに問屋1、年寄2が詰めた。 旅籠の数が中山道筋で下諏訪宿に次いで多い宿場であったようで、この旅籠で抱えた多数の飯盛女の存在が長窪甚句を生み出した宿の繁栄を物語る。