須木郷は、須木村一村のみで、地頭館は須木城麓に置かれた。 須木は、肥後人吉藩領など他領に接し、八方境と言われ、番所が置かれ、番所勤務も須木の武士があたった。
寛永13(1636)年の堺目人数・武具注文では、人数1,047人と記録されている。 麓の形態は、あまり残っていないように思われる。