寛永10年に九鬼氏が入封して城下町を建設した。 道路はすべて丁字路になって、町の端には土塁を築くなど城下町の形を整えている。 城下は、大手門に通じる田町、それよりも京道へ続く本町、福知山街道へ続く西町を中心に発達し、京屋・山崎屋などの豪商が立ち並んで、領内経済・交通の中心となっていた。 元禄15年(1702)の城下家数は、238軒で、これが天保年間(1830〜44)に278軒に増加している。