林業、酒造、製茶、物資の集散地として、また、日向往還の宿場として栄えた。 阿蘇大宮司が居住するようになり、当地を「浜町」と呼ぶようになる。館跡は、矢部高校の敷地といわれている。街並みとなっている通りは、「新町」とよばれて、白壁の大きな酒造会社と旅館や屋号を掲げた商店などで街並みを形成している。 郊外にある通潤橋は、水の便が悪いこの地方の民衆を救うため、江戸時代の惣庄屋布田保之助が1854年に肥後の石工の技術で建設した。長さ75.6m、高さ20.2m、国の重要文化財に指定されている。