岩亀横丁(がんきよこちょう)には、古くは関内の遊郭にあった岩亀楼で働く女性が静養に訪れる寮があったといわれています。 明治時代には、現在のみなとみらい21地区に「ハマのドック」の愛称で親しまれた横浜船渠会社(後の三菱重工業横浜造船所)がつくられ、昭和初期の最盛期には従業員数が1万8千人を超えるなど一大工場へと発展しました。 岩亀横丁は、従業員の飲食や買物で賑わう企業城下町として栄えました。昭和30年代には、横丁入口に銭湯、メインストリートには寿司屋、てんぷら屋、パン屋、雑貨屋などが並び、付近には活動写真、寄席などがあったほか、横道に入った花咲町付近には、料亭や置屋が並ぶ掃部山花街がありました。 (現地説明板より)