鹿児島藩の外城の一つで、曽於郡の中央部東側に位置する。寛永13(1636)年の堺目人数・武具注文では、財部衆は人数2,633人、鉄砲131挺、弓9張が配備されていた。 交通の要衝として宿泊の機能があり、また物資の集散する場であった。庄内の乱後に図師村に置かれた地頭仮屋の付近一帯に移住して麓を形成したとされる。