金刀比羅宮の門前町として発達してきた。 全国からの「こんぴら参り」が盛んになったのは、慶長年間(1596〜1615)以後のことであり、特に天保年間(1830〜44)頃になると「丸金か京六か」とまでいわれるようになって、京都の東本願寺とともに庶民信仰の一大拠点となった。 町並みは、一の橋を渡ったあたりから大門に至る石段の参道沿いに残っている。