梶無川下流域、霞ヶ浦に面する沖積低地とその東の溺谷を形成する行方台地に位置する。地名は玉造部が住したことに由来するという。 安政年間に玉造郷校が設置され、同校を本陣とする尊王攘夷派は玉造勢と称され、中心人物の水戸藩士大津之綱らが文久元年自主するまで尊攘運動の拠点であった。
昭和4年鹿島参宮鉄道が鉾田まで開通し、人口が増加し住宅地が増えた。筑波・府中から潮来へ至る道筋にあたり、中継地として栄えたと考えられます。