筑波・鹿島などへの交通路で宿場的性格を有し、天保14年当時は在方湯屋・髪結床・居酒屋・小間物商などの農間余業が行われていたとみられ、家数90。寛文年間は下総関宿藩領、貞享4年土浦藩領、元禄年間、幕末期ともに旗本板倉氏知行。
大きな門や長屋門を備えた家が多い。また、1軒当たりの敷地面積が広い。茅葺屋根の家も数軒ある。