地名の由来は「風土記」の大野里の略という。野里の南部には中世末より鋳物師が多く住み、その総領職は芥川五郎右衛門で、五郎右衛門邸の町名が今に残る。 南部は江戸初期、姫路城の外濠内に組み入れられ、城下町を形成し米屋町・福本町と五郎右衛門邸となり、西部には但馬道が通じ鍛冶町・野里寺町・威徳寺町・大野町が江戸期から商店街として発達した。