矢名瀬は、現在でも当地域の中心地であるが近世においても行政・産業・交通などの中心地であった。 明和9年の明細帳によれば、家数120(うち借家49)、人数470、職業は医師1、大工4、木挽1、紺屋4、鍛冶屋2などがあり、一応町場の様相を呈している。また市も毎年盆と年末に開かれ、矢名瀬市として近郊に聞こえていた。
当町は、山陰道表街道と裏街道の合流点であった公算が大きく加えて成相詣(西国33か所詣)の街道であったことからも、一般旅行者をはじめ商人・出稼人・杜氏・巡拝者・湯治客などの往還は頻繁で、旅籠も4〜5軒あった。 また、豊岡藩主の参勤交代の道中にあたり、休息陣屋が置かれたと考えられる。