人吉・相良藩外城の街並み一覧表


  市町村  外城名  よみがな  所在地 
 1  人吉市      原田   はらだ  上原田町、下原田町
 薩摩瀬  さつまぜ  上薩摩瀬町
 3  西浦  にしうら  
 4  七地  ひちち  赤池原町
 5  大畑  おこば  大畑町、大畑麓町
 6  錦町  一武  いちぶ  一武
 7  あさぎり町  上村  うえむら  上村上
 8  多良木町  多良木  たらき  多良木
 9  湯前町  湯前  ゆのまえ  古城、上染田
 10  相良村    深水  ふかみ  深水
 11  柳瀬  やなせ  柳瀬 
 12  四浦  ようら  四浦
 13  水上村  岩野   いわの  岩野
 14  球磨村  渡利   わたり  渡
 15  人吉市  中神   なかがみ  中神町


 肥後国東南部の山岳地帯に人吉を中心として展開した二万石の小藩。東は日向国、南は薩摩国、北と西は肥後藩に接する。中世以来の領主相良氏が近世も交替することなく明治維新まで続き、地域的に領地の大部分が山間地帯にあるために、後進的性格を展開する。拠城は中世以来、人吉城を維持した。 

 藩政は家老(菊池・菱刈・万江・米良、のち渋谷・那須・田代・片岡・犬童の各氏)のもとに寺社奉行・宗門奉行・町奉行・郡奉行がいて、それらのもとに大・小・平目付があった。とくに農村に対しては、戦国以来の一貫した政策であった真宗の禁制が厳重に施行されていった。家臣団の構成は他藩と異なり、天保期(183044)の分限帳によると、知行取は城士152人・外城主29人であるが、外城は農村の14か所に置かれていて中世的な在地支配構造がみられる。そのほかに郷士が人口の三分の一を占めている。扶持米取侍は城下に147人、外城に238人、知行扶持米合せて566人であった。 

 外城については、日本歴史地名大系では、「人吉藩の藩政の確立」では、「農村の14か所に置かれ」と記載されているが、球磨郡の説明では「原田・薩摩瀬・西裏・七地・大畑・一武・上村・多良木・湯前・深水・柳瀬・四浦・岩野の十三外城」と記載されている。また、個別の地域の記載では、渡利と中神の説明にも外城が置かれていた旨の記載がある。

 球磨村誌は、渡利を含めて14外城とし、多良木町史でも、渡利を含めて14外城としている。従って最大15カ所の外城があったことになる。

 薩摩藩の外城は、行政区域であり麓といわれる郷士集落を形成しているが、相良藩の外城は、これとは異なり、「知行取の居住地である外城」ということである。郷士集落の形成は、大規模な所もあるが、小規模な所もあるように思える。


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