三次支藩の成立により、その領地となり、三次支藩の鉄、麻、紙などの蔵物移出港と位置付けられた。1663(寛文3)年には、船入堀が築調され、奉行、町役人が配置された。忠海港は、地理的にみても三原や竹原より沖に張り出しているので、西廻り航路に有利な位置を占めており、各地の特産物が移入され交易関係に従事する者が多かった。
明治11年には、郡役所が置かれ、郡の中心地と位置付けられる。繁栄を極めた港町も汽船や鉄道の発達により、次第に衰退していった。
現在の街並みは、かつての繁栄を残すように市街地のあちらこちらに点在している。
|