江戸期の浅野氏時代には家老上田氏給地となっている。
山陽道玖波宿の宿場町で上之町・中町・本町・胡之辻・下之町・風呂町・上裏町・下裏町・川本町の町場を形成し、農業よりも奥筋から積み出される山荷物・板材木・炭・薪・茶・塵紙の問屋商、雑穀・干鰯・塩などの交易を主業とし、漁業・山稼ぎや通行人馬の荷物持ちも行い、口屋番所・上田家炭納屋役所が置かれた。
本陣は、寛永9年家老上田氏が庄屋平田家の居室に茶屋を設けたのが始まりで、その眺望が勝れていたことから宝暦9年に家老上田家の儒臣福山貞儀が洪量館と命名、文人墨客の集まるところとなった。
長州戦争では、関門・番所が設けられ、慶応2年には激戦地となり民家423軒を焼失し、1,688人が羅災し、この時本陣・口や番所・上田家炭役所も焼失した。
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