それまで漁村に過ぎなかった尾道が嘉応元年大田荘の倉敷地となって発展し始めると、出入港する船への水や食料の供給、船のタデヤキの場所の提供などで、向島と尾道との関係が深められていく。
明治になり向島に造船所が設立されると、労働力は島内だけでなく尾道からも導入され、尾道水道の渡船は増加した。向島の兼吉とおのみちを結ぶ兼吉渡しは、江戸期からあり、文化4年(1807)には渡船業者が出現し、明治中期までは唯一の渡船であった。
兼吉1丁目の北岸に尾道渡船(旧兼吉渡し)があり、兼吉地区は商店街で、兼吉郵便局があり、向島紡績があった。
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