世羅郡の太田荘が古代末期に高野山領となり、その倉敷地である尾道へ多くの年貢が運ばれた。この間の交通路が縦断し、これが近世の石州街道に発展することとなる。古代山陽道が通じ、尾道・太田荘の道路が通じると、その交差する中間宿駅として利用されたであろう。中世以来の伝統をもとに街道沿いに宿場町が形成され、在郷町としての機能もはたした。