糸崎町の遊廓には、大正5年(1916)現在、貸座敷11軒、娼妓23人、芸妓31人が登録され、その他に私妓40人以上を数えていた。それが造船景気を迎えると娼妓20余人、芸妓40余人、私妓140人以上に増えた。
大正8年(1919)9月17日付けの「芸備日々新聞」によると、240〜250人にのぼるが、そのうち芸娼妓の鑑札をもつ者は、100人内外という。そして廓を離れ、渡船にて停泊中の汽船或は帆船へと漕ぎ行き、「白昼でも公然」と振る舞ったという。
しかし大正9年(1920)12月11日の同紙によれば、「一朝経済界の変動に依って所謂船成金連の懐具合も悪くなり、随って営業するものも減じてきた結果、此間迄の栄華は槿花一朝の夢と消えて」しまったとある。(三原市史)
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