平清盛が厳島社への往来の航路の便をはかるため、音戸ノ瀬戸を開削したとの言い伝えがある。明らかな証拠はないものの何らかの工事を行ったことも考えられる。音戸ノ瀬戸は、瀬戸町と呼ばれ、坪井浦と鰯浜浦に分けられていた。 海側は、埋立が行われたが、山側の旧道沿いに昔の街並みが残されている。特に街並みの保存運動が行われている気配はなく、修景は行われていない。昔の風情そのままが残されているように思われる。