中世までの瀬戸内海航路は、ほとんど陸地沿いの「安芸地乗り」と呼ばれるコースであった。江戸期になると、次第に内海の中央部を通る「沖乗り」または「中乗り」と呼ばれる最短コースが利用されるようになり、西廻り航路の発達は、この「沖乗り」をいっそう活発にさせた。 このコースに位置して、自然的な条件に恵まれた御手洗は急速に港町を形成し、寛文6年(1666)には御手洗の耕地を屋敷地にすることが藩から許され、人家が立ち始めたといわれる。