古くから内海航路の要衝で、新羅の使節は、生活物資の補充や船の修理で立ち寄っている。江戸期には内海第一の造船地であった。文政年間、船大工の親方が35人いたという記録がそれを示す。また、元治年間には西洋型の船を造ったともいわれ、本浦の東、桂ケ浜にはわが国最古の洋式ドック跡が残っている。