長州戦争が起こってから藩内の酒の販路区域の制限が解かれたので、当町域の酒は明治6年頃より県外に販路を求めるようになり、伊予中島の商人の手を経て九州東海岸に移出された。同10年西南戦争が起こると、酒の需要はますます増大し、同15年には三津村の酒造家は26軒となり醸造高も5,000石に達した。
明治9年10月、三津村で酒造業を始めた三浦仙三郎が、同31年「軟水による改良醸造法」を大成してからは、酒造りに大革命を起こして酒質が改善され、いわゆる三津流と称される広島醸造法として三津杜氏によって全国に普及した。
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