廿日市はすでに寛永15年頃には町内が14町に分化し、屋敷地345筆を数え中世の定期市から常店形態へと町屋の発展がみられた。町には御口座・十歩一所・紙蔵などが置かれ、奥筋からの年貢米のほか藩専売の板木材・紙・楮などが集散し、領主的流通の地方拠点の役割を果たした。
また、周辺や奥筋農村の生産物交換市場、町方商人と在郷商人の取引市場、城下、瀬戸内、上方と奥筋山陰方面とを結ぶ中継市場ないし商品取引市場の機能も果たした。しかも西国街道と石州津和野街道が接する交通の要衝であったため、町には宿駅がおかれ、中世以来の旧家山田家が本陣役を勤め、旅宿や交通労働者で賑わった。
湊は海駅として商船でにぎわい、仲背などの港湾労働者も現れ、宮島、広島、能美方面へは渡海船や番船が仕立てられた。
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