寛文・延宝年間になると、市の長さ77間、道幅1間半と定められ、家数は本家14軒、借家8軒、その他22軒(蔵、むろ屋、牛馬屋など)と増加した。 そして、正徳5年には道路を挟んで両側に10軒ずつの町並みが形成され、その市機能は街道筋でなく、人馬継所の施設はなく、宮島市の3・6・9月に」は石州商人の往来が頻雑になる。定期の市立日は設けず、随時に諸方物資が集散している。