阿伏兎港の南西海上に位置し、西には坊地ノ瀬戸を挟んで横島がある。 瀬戸内海交通の要津として栄え、兵庫北関に年に19回入港し、積荷は備後塩であったという記録がある。
島では近世初頭より麻網製造が始まり、その技術を生かして島民は九州北岸まで出かけ捕鯨労働に従事した。また、明治初期には沖打瀬網が中心であって、明治37年頃からはフィリピンのマニラ湾に漁業移民として進出した。