万治3年福山藩士本庄重政が神村・柳津の両村沖の干拓に着手、まず塩田として開発された。 大正12年の生業は「沼隈郡誌」によれば、製塩に従事するかたわら木履を製造、また商家が比較的多く、魚類を売り歩く者もいた。 木履は当初原料は桐であったが、明治24・25年頃から石見地方の油木を使用していた。同33年になり北海道の栓材を移入したところ生産性が向上した。 羽原川河口に当時の面影が残っている。