古くから陰陽連絡の要地、備中と備後の藩境の要衝として栄えた町である。浅野藩の支配では、家老亀田高綱とその家臣団を配した。 タタラ製鉄が盛んで、「くろがねどころ東城」といわれ、鉄の集散地として栄えた。 往時の繁栄の象徴として木造3階建ての建物が多く見受けられる。