比和一帯の旧恵蘇郡は、「業は農を専として別産なし」という土地ながら、「地により鉄鉱炭焼をなすもの少なからず」と「芸藩通志」が記しているように、鉱山業が盛んであった。 恵蘇郡の鉄穴(かんな 砂鉄採取場)は享保年間(1,716〜36)には131か所で、奴可郡に次いで多かったが、うち町域(旧比和町)に84か所があり、こうした鉄山業の盛行を背景に、出雲路の宿場が置かれていた比和には町場が形成され、貨物駄送でにぎわった。