戦国期に西毛の豪族長野氏が当地に箕輪城を築き、天正18年井伊直政は箕輪城主12万石に封じられた。 地名は、慶長3年井伊直政が居城を中山道和田宿(現高崎市)へ移したため、人家も高崎へ移り当地はさびれて空家(明屋)になったことにちなみ、町人(商人)のいた当地を西明屋、武士のいた地を東明屋と呼んだ。道路も道幅だけずれるくいちがい十字路や丁子路が多く、戦国期の城下町の姿を示している。