大屋山南麓、南牧川中流域に位置する。地名の由来はあきらかではないが、武田信玄が西上州を攻略しようとして地内を通過しようとした際、岩に荷車を突きあて車輪が6つに分割されたところから起こったという説が残されている。江戸期は、はじめ幕府領、嘉永7年旗本小笠原領。 農間渡世は、男は薪取り、紙すき、砥沢より下仁田へ付出す砥沢輸送、下仁田商人が砥沢穀市で受け取った穀荷輸送、女は紙すき、養蚕・機織。絹・紙は下仁田市で売った。なお、米穀の砥沢穀市を通して入る信州佐久米への依存度が高かったが、佐久地方で造られた酒も多量に入ってきていた。明治22年、はじめ月形村、昭和30年からは南牧村の大字。
南牧川の河岸段丘の平地を利用して集落は形成されている。養蚕農家特有のせがい造りの建物が多く、かつて養蚕が盛んであったことが解る。