江戸期は、幕府領。当地の耕地とすれば極めて悪条件の土地柄であった。山の管理は村が共同で行っていた。当地域には、佐久米が中馬で運ばれており、砥沢穀市の開設にもつながったが、当村内の余地峠がその通路となっていた。
明治22年からはじめ尾沢村村、昭和30年からは南牧村の大字。南牧川の支流の熊倉川およびそれに沿って東西に走る県道下仁田佐久線に山が迫り平地は少ない。集落はその傾斜面に位置している。