船子川上流、赤久縄山を背にした傾斜地に集落を形成。橋倉川沿いの各集落とは、飛び地のように離れて立地。山中領中山郷の1村で、幕府領。 「寛文郷帳」に村名が見え、村高は畑方1石余。元禄7年の検地を経て平原村の枝村となる。
戸数10戸に満たない集落であるが、その建物からかつて養蚕で栄えたことが分かる。平家の落人伝説もある天界の里である。