古代に三関(さんげん)の1つ不破関が設置された場所で、東西に走る中山道の宿駅として交通の要衝であった。壬申の乱や関ケ原の戦いの合戦場として特に著名な地である。江戸期を通じて中山道の宿駅として栄え、東は垂井宿へ1里14町、西は今須宿へ約1里。 宿の中心部に北国街道と伊勢街道の分岐点があり、九里半街道(米原と濃州三湊または大垣湊との間)との連絡点でもあったため旅籠屋・問屋が多かった。天保14年旅籠屋33軒のうち大旅籠屋が12軒で、美濃16宿中最高である。