江戸期は加納藩の城下町。城下の基は慶長6年奥平信昌が10万石をもって封ぜられたことに始まる。城郭とその侍屋敷、中山道沿いの町方からなる。はじめ300余の侍屋敷が城の両方を中心として広大な土地を占めていたが、度重なる藩主の交代や封地の減少に伴い侍屋敷もしだいに縮小。幕末には侍屋敷が外畑として残されていた。当地は中山道の六十七宿の1つで美濃十六宿中唯一の城下町の宿場である。 寛政11年藩主大久保忠職治政の時、宿役人・本陣・年寄・宿高庄屋等の諸役を置いた。宿場の長さは約18町。本陣・脇本陣は本町3丁目。
天保14年には、本陣・脇本陣各1軒、人馬継問屋場2か所、旅籠屋35軒(うち中14軒・小21軒)と記す。