街並みめぐり
                                                                          

街並みの名称   上小屋 地図
 所在地  白河市大信隈戸上小屋
 訪問日  令和5年10月31日


 1805(文化2)年に編纂された「白河風土記」によると上小屋が開発された時期については不詳とされている。しかし、概、戦国時代は天正年間(15731591)白河結城氏の家臣大山紀伊守が大山城を築いたころ開発されたといわれている。それいぜんは、この辺一帯を深谷村と称した。

 荒野であったこの地域が、開発されるに及び「荒野」がそのまま地名に変化し、後に「深谷村」から「上小屋村」に変わったのではないかといわれている。

 1590(天正18)年、豊臣秀吉は小田原征伐後、「奥州仕置」で会津に向うため伊達政宗に命じて会津街道を整備させ上小屋を通過した。

 江戸時代になり、徳川家康により天下が平定されると、江戸日本橋を基点に五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)が整備され宿駅、伝馬制が敷かれた。さらに1635(寛永12)年、徳川3代将軍家光公によって武家諸法度が公布され参勤交代が制度化されると、「上小屋宿」は会津街道(白河街道)の重要な宿駅として、本陣、問屋、検断が置かれ人馬人足などの手配が行われた。

本陣(内山家)には幕府公用使のみが宿泊でき、その他、私用での宿泊は旅籠や木賃宿が利用された。

「上小屋宿」は江戸時代を通じて、越後の新発田藩溝口家と会津藩松平家の通過宿駅として、そして、佐渡金山の金の輸送や会津藩の蠟運送の通過点として利用された。日本で初めて日本地図を作成した伊能忠敬も1802(享和2)年に上小屋に宿泊して測量している。さらには、幕末に安政の大獄で刑死した吉田松陰や多くの文人・剣客が上小屋宿を利用した。

 江戸時代の上小屋は、「岩瀬郡隈戸郡上小屋村」と称し、「戸数34軒で南北に連なり会津への駅所なり、村の中ほどに石橋があり、この橋より西を六角町といった」(白河風土記)。

 白河藩上小屋宿は、江戸時代を通して、会津街道の重要な宿として繁栄し、普通は夜搗く刈り上げ餅も朝でないと搗けないほどの忙しさと賑わいを見せたが、明治時代になり、鉄道が普及し、人や物資の輸送が容易になると会津街道が利用されることはなくなり、上小屋宿もかつての賑わいはみられなくなった。(現地説明板 旧上小屋宿の由来) 

 上小屋宿の街並みには「鍛冶屋」「田村屋」「大黒屋」などと、宿場町であった頃の屋号を書いた看板が、民家の玄関先に掲げられている。住宅は古民家ではなく、現代的な住宅に建て代わっている。ほぼ一直線の街道に並ぶレトロな雰囲気を感じさせる看板により、時の流れと宿場町に賑いを感じさせてくれる。


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上小屋の街並み


   
   本陣の表示看板
   
旧上小屋宿町割  宿の入口にあった灯籠


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