街並みめぐり
                                                                          

街並みの名称   岳温泉 地図
 所在地  二本松市岳温泉
 訪問日  令和5年11月2日


 平安時代からの温泉場です。江戸時代に、この地を統治していた二本松藩により、安達太良山の標高1500メートルの位置に温泉街として整備され、番所や藩公の御殿も配置されました。しかし、山津波の土石流により一瞬にして温泉街を飲み込み崩壊、埋没しました。 

 二本松藩は、元の温泉街より6キロ程下の平原地に、温泉街を再建すべく新温泉地の建設に着手しました。
 温泉街の高台に藩公御殿や温泉神社が鎮座し、中心地に14件の旅館と3つの共同浴場、茶屋・商店・工人が軒を連ねた温泉街を建設しました。また、嘉永5年(1852年)発刊の『諸国温泉効能鑑』全国温泉番付によれば、「陸奥の岳温泉」の名で東北地方第1位にあたる東前頭2枚目に位置づけされ、全国に知られた温泉でもありました。

 しかし、慶応4年(明治元年)の戊辰戦争で、敵の西軍の拠点になることを恐れた二本松藩士によって焼き払われてしまいました。 

 3年後(明治3年)には、現在の岳温泉の西南部のエリアに温泉街が再々建されましたが、明治維新の動乱期ということもあり、過去の温泉街のような賑わいはなく、素朴な温泉場でした。 

 そして、明治3610月、旅館からの失火により再び温泉街は全滅してしまいます。
 失火により焼失した温泉街を再再々建すべく、有志により岳温泉株式合資会社を設立します。当時の椚平1番地国有林を払い下げてもらい、中央に道路を敷設し両側に旅館や商店を並べて2つの共同浴場を配置し、今の岳温泉の原型が完成しました。 

 大正12年(1923年)に経営不振となり倒産に至ります。その後、秋田県出身で台湾土地建物株式会社社長であった木村泰治が、土地と温泉の権利一切を巨費で買い取り、岳温泉の再建が始まります。

 温泉街の整備、国立公園指定、県営くろがね小屋の新設など、観光施設の開発充実に尽力しました。
 その結果、昭和30年(1955年)には全国で7カ所の国民保養温泉の一つに指定され(現在は全国で80か所の国民保養温泉地がある)、繁栄の基礎を築いたのです。


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