江戸期の白河街道(別称東通り・越後会津街道・会津本街道・会津通り佐渡路)の宿駅。 会津藩が寛文7年に領内の宿駅を書き上げた駅法記に宿駅として見える。化政期の家数134軒で、宿内の構成は「西の入口を古町、その次を中町、東端を荒町」と称した。ほかに新町と裏町があった。人馬継立は赤津宿へ20町48間余、三代宿へは33町23間余。 江戸後期の街道絵図によると、本陣1軒・脇本陣1軒・問屋2軒。