化政期の家数44軒。慶長16年の会津大地震で勝負沢が崩れ、越後街道が鐘撞堂峠越えに変わったが、正保2年越後街道が村内を通り、寛政5年脇街道駅所に指定された。 文化3年東羽賀村との間を宝年丸という渡し舟が往来し、明治9年に舟橋が架けられた。