会津領。橋爪組に属する。化政期の家数は本村122軒・三日町18軒・船場3軒。従来駅所であったが、会津の領主蒲生氏の治下にこれを止め、火玉村(のちの福永村)に継がれることになった。
正保2年藩は尾張国瀬戸の人水野源左衛門を招き、近傍の土を用い陶器を製造させた。以来陶業が盛んになり、村内の陶工が居住する所を瀬戸町と呼ぶようになった。