江戸期の越後街道(別称会津街道・会津通り佐渡路)の宿駅。 慶長16年の大地震で越後街道の勝負沢峠が通行不能となり、代わって鐘撞堂峠を開削して本道にしたため、坂下村が宿駅に取り立てられた。 地名は、アイヌ語で崖の意の「バッケ」から生じたとも、高寺の坂の下にあたる所から坂下に転じたともいう。
近世以降は、地内を東西に通る越後街道を主幹として、下野街道・沼田街道の分岐点ともなり、交易の要衝となった。