当町は、発心城の城下町に由来する。はじめ柳川藩領、元和6年からは久留米藩領。 町は庄屋支配下にあったが、街道筋の宿駅には別当が置かれ、制札場もあった。駅は必要に応じて町人から御定賃銭で人馬を出させた。 明治と大正初期は、山麓部に櫨実と蜜柑の生産が多かったが、その後、櫨に代わって柿・苗木・園芸樹木が盛んになった。