北・東・西は若狭湾、南は久々子湖に面し、海と山の間に人家が密集している。
古くから千歯稲扱機を製造していたが、天保5年寺川庄兵衛が鍛冶の技術を研究体得して独特の製法で焼刃をつけ、優良品を製造して販路を全国に広めた。明治15年の生産台数は2万5000挺にも及び、女子の多くは販売に従事し、北は青森から南は沖縄まで行商する者は当時80名を数えた。大正期に入ると足踏式回転稲扱機が考案され、千歯稲扱機は製造されなくなったが、水産物の集散地であることもあって、集落は市街地化し、商店・飲食店・料亭も多く、活況を呈し、戦後は久々子湖北西に、三方五湖遊覧観光船の発着地やレジャー施設が建設された。
|