近世には、松山藩領に属していた。 岩城島は、内海航路の要衝にあるために諸大名の参勤交代の本陣が置かれ、西部の三浦屋があてられていた。本陣の三浦屋は、間口は12間、奥行き15間の豪邸で、間取り等も往時のまま現存している。 民間航路の風待ち港でもあった岩城には、旅籠、茶屋が並び文化13(1816)年浚渫記録では、問屋10軒の名があり、その頃9隻の廻船をもっていた。