浅瀬石川上流右岸に形成された山間の温泉集落で藩政期から栄えてきた。 傷ついたツルが芦原に舞い降り、全快して飛び去ったという伝承があり、古くは鶴泉または鶴羽立と称されたという。 万延元(1860)年の「津軽道中譚」には、「前後左右湯小屋連綿として建てつづき、三味太鼓の声、所々に聞こえ(中略)殆ど世外の一温地なるべし。」とある。弘前藩主も度々訪れている。 湯治場の情緒の残こされている温泉地である。