集落は海岸線に沿って南北に発達し、伊能忠敬「測量日誌」によれば、享和2年の家数35軒と記されている。 明治初年の戸数174、村況は「東に山を負い、田少なく畠多し、土地下之下、依て糧食足らす、山に入木材を採り海には漁釣す、尚足らさるものは北地に渡り傭丁となり、又常に航海する者ありて、当時は一村に大小船79艘を貯ふ」という。(国誌)