貞享4年(1687)の検地では、塩町に30人の町人が記されている。享保10年の青森町惣家別相改帳によれば、町内南側に36人、北側に37人、計73人の町人がいた。 元禄8年往来宿および芝居小屋の建設を願い出て許可を得、塩町の名主は同時に諸般頭の小宿を営み、洗濯女(娼妓)を抱え置くことも許可になっている。 遊廓は、寛政11年(1799)で楼主10人、娼妓52人がおり、明治22年柳原(茶屋町)に移転するまで続いた。 大町との境に「長五間二尺高欄」のある塩町橋があった。 明治22年に火災に見舞われたことを契機として、江戸期から続いた遊廓は柳原(茶屋町)に移転し、中村座、文芸座などの芝居小屋と商店街となる。