近世中期から養蚕、煙草の栽培が盛んで、増田はその集散地消費物資の市場であった。 増田商人は、日用品、銭を高利に前貸しして産物の葉藍、煙草、生糸、真綿などを扱い久保田、土崎湊などの商人へ中継した。さらに周辺平野部からは米を買い集め、米穀集荷商人としても活躍し、市日に集まる農民への販売と在郷村の小商人に対する在方問屋商人でもあった。 増田は、国道鉄道からそれたため町の商業は衰退するが、大地主が多く住んだ。 中七日通りは、今も昔も増田の商業活動の拠点となっています。主屋の奥に鞘で囲った土蔵を建てたが、この地方では「内蔵」と呼ばれており、雪国の特性の蔵です。 増田では、この内蔵を「蔵の日」として公開する試みを行っているようです。